クリスティアン・ヴォーリン

ブラックメタルバンド、ディセクションの1stアルバム『The Somberlain』、2ndアルバム『Storm of the Light’s Bane』のアートワークを担当。後者の、雪に覆われたツンドラの中で馬に乗った死神の図像は特に名高い。ノルウェーのブラックメタルバンド、エンペラーのデビュー作『In the Nightside Eclipse』もまた、ヴォーリンによるジャケットが高く評価されるアルバムである。

これらの作品を嚆矢に、ヴォーリンはアルバム・アーティストとしての活躍を続け、ヨーロッパのデスメタル、ブラックメタル、ドゥームメタル、パワーメタル、ゴシックメタルなど、2000年代を通じて数多くのバンドのアルバムのアートワークを手がけた。

アレクサンドル・アレヒン

モスクワの裕福な家庭に生まれた。父親は地主でドゥーマの一員だった。1914年サンクトペテルブルク大会で3位に入り、他の入賞者4人とともにグランドマスターの称号を贈られた。ロシア革命後、結婚を機にフランスに、のちドイツに移住した。

同じ1927年にキューバのホセ・ラウル・カパブランカに挑戦、マッチに勝利して世界チャンピオンとなった。この時の契約にはチャンピオンのリターンマッチの権利が定められていたが、アレヒンはカパブランカとの再戦を避け続け、1929年と1934年にエフィム・ボゴリュボフを相手にチャンピオンを防衛した。

妖怪

日本の集落や家屋にみられる、自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、当時では解明できない自然現象・物や人に対しての畏怖など妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。「神さび」という言葉に代表されるように、古いものや老いたものは、それだけで神聖であり神々しいとされてきた価値観も、妖怪(九十九神)が古い物や長く生きた物の憑き物という解釈と重なる。

そして、現在では妖怪の存在の実証はされておらず、科学が未発達だった時代の呪術的思考の産物や迷信とされるが、日本人の心や思考のあり方を表す一つの事柄でもある。

ドイッチュラント級装甲艦

第一次世界大戦の敗戦により、ドイツにはヴェルサイユ条約下で軍備制限が課せられた。戦闘艦の新造も制限され、旧式戦艦の代艦に限って、1921年以降「基準排水量1万トン以下で主砲口径も28cmまで」の“装甲を施した軍艦”の建造が認められたことにより本級はその制限枠一杯を利用している。本級の分類に当たり、ドイツ海軍は戦艦などと称して他国の疑念を招かないように、ヴェルサイユ条約の条文の仏語記載にある”Cuirassé”(装甲艦)を独語訳した”Panzerschiff”と類別し、新しい艦種として建造した。

しかしながら上述の通り、英国のマスコミは本級をポケット戦艦と呼称した。しかし実態としては、火力はともかく、防御力は重巡洋艦並み、速度はそれ以下といえる程度の艦型であった。1934年予算で承認されたドイッチュラント級4番艦は、防御力を十分なものに強化した結果,19,000トンにまで拡大してしまった(結局は火力・速力も強化した、より大型のシャルンホルスト級巡洋戦艦として実現)。ドイツ海軍は1939年にPanzerschiffを”Großer Kreuzer”(大巡洋艦:ドイツ特有の艦種で、他国で言う重巡・巡洋戦艦のこと)へと艦種変更した。

斎藤茂吉

1882年(明治15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の上山市金瓶)に生まれた。

守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは15歳のときで、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、「こんなうまいものがあるのか」と思い、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという。

シアカ・スティーブンス

1958年、9月にスティーブンスはミルトン・マルガイ首相の異母兄弟でもあり彼の後継者のアルバート・マルガイと共にシエラレオネ人民党 (SLPP) を脱退し、人民国家党 (PNP) を結成した。

1960年にPNPとUPPが4月のロンドンで開催される憲法制定議会に向けて全政党による統一戦線 (UNF) に加わった。これにより国民連合の政権が誕生し、アルバート・マルガイが首相になると、スティーブンスは新たに独立前選挙維進運動 (EBIM) を結成するため連合を脱退した。その結果、彼はPNPから除外されるが、EBIMを全人民会議(APC)に変更しAPCの議長になった。

1964年にフリータウンの市長に当選。1967年3月17日、総選挙に勝利してイギリス総督サー・ヘンリー・ライトフットより首相に指名される。ところが、デヴィッド・ランサナ准将が選挙結果に不満を持つマルガイ派の支持を受けてクーデターを起こし、スティーブンスとライトフットが逮捕された(3月21日)。3月23日、チャールズ・ブラカ中佐らのクーデターでランサナが失脚し、アンドリュー・ジャクソン=スミス中佐の指導下で「国家改革協議会(NRC)」が樹立された。スティーブンスはギニアへ亡命したが、スミス軍事政権の腐敗と独裁への批判が高まり、1968年4月17日にジョン・バングラ准将らがスティーブンスを支持してクーデターを起こし、NRC政権を打倒した。帰国したスティーブンスを首相として、APCとSLPPが連合政権を樹立することとなった。

春秋社

春秋社(しゅんじゅうしゃ)は、日本の出版社。主に仏教を始めとした宗教書を中心に哲学、思想、心理、文学、音楽の各部門の専門書を刊行している。特に、『世界音楽全集 ピアノ篇』シリーズにおいて、井口基成編集による校訂版では1949年に初出版されて以来、現在もピアノの学習者にとって好評である。

三国コカ・コーラボトリング

社名の由来は群馬・新潟を結ぶ、三国峠にちなむ。Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズにも出資している他に、その地元埼玉の大宮アルディージャにもユニフォームスポンサーとして協賛した時代がある。また、2005年(平成17年)より既存の奨学金制度を手厚くするため「三国コカ・コーラ育英会」を創設した。

グループとして、ワインの輸入やアクアマリンブランドを展開する三国フーズがある。

なお、同社営業エリアの関東甲信越各県ついては、千葉県・茨城県・栃木県は利根コカ・コーラボトリング、神奈川県・山梨県・静岡県(旧富士コカ・コーラボトリングエリア)はコカ・コーラセントラルジャパン、長野県は北陸コカ・コーラボトリング、東京都は東京コカ・コーラボトリングがそれぞれ担当している。

ロシア社会民主労働党

1890年代に入り、ロシアにおいても工業化の進展とともに労働運動が興隆し、それを基盤に様々な社会民主主義(マルクス主義)グループが形成された。そこで次第に全国的な党の創立が課題とされるようになった。

そこで当時有力だったキエフのグループが中心となり、1898年にミンスクで党の創立大会が開かれた。この大会は党名を「ロシア社会民主党」とし、すでに発行されていた『ラボーチャヤ・ガゼータ(労働者新聞)』を党中央機関紙とし、中央委員会を選出した。

中央委員会はピョートル・シュトルーベに党の宣言の起草を依頼したが、大会直後に大量の逮捕によって解体してしまい、実質的な活動を始めることはできなかった。宣言を起草したシュトルーベは独断で党名を「ロシア社会民主労働党」とし、以後この名前が定着した。

ファン・イムホフ号事件

第二次世界大戦前期の1940年5月、ドイツ軍がオランダに侵攻すると、オランダ領東インドに在住のドイツ人はオランダの植民地政府当局によって全員が抑留された。ドイツ人は収容所に集められて、厳しい処遇を受けた。

1941年12月に日本が参戦して太平洋戦争が勃発すると、オランダ植民地政府は、日本軍の侵攻によってドイツ人が解放されるのを阻止するため、抑留者をイギリス勢力圏へと移送することを決めた。オランダ当局は、船でイギリス領インドなどへと抑留者の移送を開始した。日本軍の蘭印作戦の進展に伴い、護送用船舶が撃沈される危険性も高まってきたが、オランダ軍は輸送の強行を命じた。

護送用船舶の設備は不十分なものであった。オランダ当局は、大量の人員輸送に適した客船などを十分に用意することはできなかった。例えば本件で使用されたKMP社の「ファン・イムホフ」は小型の貨物船で、ドイツ人たちは中甲板や後甲板を有刺鉄線で仕切った狭い区画に2-30人に分けて押し込まれた。救命設備も不足し、救命胴衣だけは全員に配布されたものの、ボートや筏は収容能力が小さかった。ドイツ人たちは、日本軍の攻撃を避けるために、抑留者移送中である旨の識別標識を船に施すよう希望したが、オランダ当局は拒絶した。